アフリカのセネガルを出発時の荷物は歯ブラシ一本、
そこから、フランス、日本、ベルギー、再びセネガル、そして東京で暮らした。
荷物の増減はあるが歯ブラシ1本に戻ることはなかった。
歯ブラシとは一体何だったのだろう?
ミニマリスト活動を開始したきっかけであること、そして。
※ 回想メモ
携帯電話はもつのか?
歯ブラシだけで移動した時は誰にも連絡しなかったし、連絡も来なかった
しかし、あの時は、携帯がないのが普通だったから、
今ならどうなんだろう
携帯というか、スマホというか、いるのか?
あの時は、スマホも携帯もなく、途中で何かで死んでも俺は見つからなかっただろうな
いちど、何日か、電話無しで出かけよう
パチスロひとり旅のときは、途中で携帯を買った、PHSを
でも、途中からだ、旅立つときは持っていなかった
大阪から東京へ行くときは、バイクの後ろに詰める程度の服を持っていただけだな、勉強の道具は送ったのだろうか?覚えていない、布団も当然なかった?いや、宅急便で送ったのだろう、あのころにシュラフで寝るという発想は無かった
恵比寿から日立に移動するときは食器棚、椅子、そんな物を持っていたな、布団も持っていた。
セネガルから歯ブラシ1本
セネガルに行って、歯ブラシ一本を持って帰ってきた
歯ブラシ一本で、ダカールからアビジャンにエールアフリックで、普通料金だからかビジネスクラスになった、手ぶらでビジネスクラスに乗る
アビジャンに着いたらJICAアビジャン事務所に寄り、協力隊の連絡所に泊まる
アビジャンの職業訓練校で活動している女性隊員に学校の案内をしてもらう
よく聞くと私がセネガルで女性隊員を学校案内したという、全く覚えていなかった。
アビジャンの街はダカールよりも都会だなあと感じた
村の隊員にも村の案内をしてもらう、キャッサバをねった食べ物を初めて食べた、スープの味が濃くて忘れられない味だ
アビジャンからアクラまで路線バスで移動
途中の街で旅館を見つけて宿泊、宿泊してから気がついたが連れ込み宿だった、夜に他の部屋がうるさかった、下着を洗い、外着を着て寝る、次の朝には下着は乾いている
コートジボワールから国境を歩いて渡る、渡ったところにホテルが有りバスでの移動は中止して午後も早いが宿泊することにする、ビールも売っていてのんびりと過ごす、
次の日は路線バスでアクラに着いた、JICAアクラ事務所の住所を頼りに行くが休日でしまっている、偶然出勤してきた職員の方に協力隊員連絡所の住所を教えてもらいタクシーで移動した
アクラでは隊員のかたにビールを飲ませてもらい、大きなマーケットを案内してもらい、アクラの街で興味深く過ごした
アクラからロンドンへ飛行機で移動
ロンドンの街は寒かった、ヒースローから街の中心までバスに乗って移動、寒い
街に到着して、先ずはホテルを予約して、半地下の薄暗い部屋にチェックインして、そして街を歩いた
露天が並ぶマーケットで長袖とベルトを購入した、両方共に2ポンド程度だ、フランスでの就職面接を想定して地味目のシャツとベルトを購入した
寒さは少し和らいでほっとする
アフリカの旅が終了したので最後のマラリア予防を大きな公園のベンチに座り実行する
マラリア予防薬のニバキンを一気に6錠飲むのだ(通常は1錠)、一気に飲むことでマラリア原虫が血液に居た場合に一気に退治できる。これがきつかった、頭が朦朧としてきてその場でぐったりとしてしまった、天地がぐるぐるとまわりだしどうやってホテルまでほうほうの体で戻って寝込んだ、次の日に起きると薬が抜けて動けるようになった
ロンドンからユーロスターに乗りフランスのパリへ、また英語からフランス語への切り替わりだ
パリでは、就職面接の機会を紹介してくれた協力隊OBの方へ挨拶にいく
観光もそこそこに就職の面接のことを考えて、北部の町ヴァランシエンヌへTGVで移動する
ヴァランシエンヌでは駅前の安宿に投宿した、このホテルは週末は昼には従業員が居ないので昼間はホテル内にいられないけど良いか?と聞かれて、なんだそれ?とおもうが、高いホテルに泊まる理由もないので宿泊する、昼間は街を歩けて結果的には良い選択だった。
ホテルで夜は服を洗濯して乾かす、着ている分しかないので毎日上着か下着のどちらかを洗っていくのだ。
就職面接は無事に完了した。面接だからメモは必要かと、ノートとボールペンだけを買って面接に挑んだ。結果的にこの会社で働くことになったので面接は成功したのだ。
アフリカンフレンチでも通じていたんだな。
ノートは面接が終わったらメモを記入した数ページを切り取って処分、手荷物が増えるのが嫌だから、ボールペンはとっておいた。
再びパリへ移動、観光して過ごした
日本へ出発するときにシャルル・ド・ゴール空港でチェックイン時に持っていたのはなぜか本屋で買った「パンセ(考える)」という哲学の本、ポケットには歯ブラシとボールペン、パスポート、クレジットカードとお金
チェックインカウンターでビジネスクラスにアップグレードしてくれた、手ぶらで(本だけで)のビジネスクラス搭乗の2回目だ。
歯ブラシ1本は終わり、日本からフランスへ
日本に戻り、東京で健康診断なので数日過ごし、大阪の実家に戻った。
実家に戻ると、セネガルに行く前に持っていた荷物が大きなダンボールで10箱有った、大学を卒業したときに持っていた荷物だ。
セネガルに行くときは大きなスーツケース一つと、大きな旅行バックパックひとつだったから荷物は大して持っていなかった。その10箱には、雑誌、服、ビデオテープ、ガラクタ、そんなものが入っていた、三年間使わなかったものに何の価値もないと気が付き全て破棄した。
残ったのは自動車整備用の工具とコンパクトなシュラフ、この2つは次の移動先であるフランスへ持っていった
今回の旅行で共にした服とベルト、そして薄いジーンズは日本で買い替えて捨てた、日本で着るには見栄えが悪かったから
実家に置いてあったものは、ほとんど捨てたが
工具、シュラフはフランスへ持って行った。
服は買い直した、ベルトと服、てぶら旅を共にした時のモノはフランスへ持っていった。
フランスで4年過ごしたあとに日本に帰国したときはらスーツケース一つを持って帰ってきた。居候だったから何も持ってないという理由もあるが、何ももっていない。
日本生活からベルギーへ
日本で就職して、実家から東京に行くときに持っていたのは、、カバン一つ、小さな借りていたスーツケースだったかな。
結婚するまで住んだ東京の寮の荷物は意外に多く、カローラワゴンの荷台がいっぱいになった。
ベルギーに駐在時はひとりじゃないので当然大量の荷物、パチスロ機械もっていた(バカ)。
その後にダカールに移るときも同じ、大量の荷物を持っていた。
そして、東京に移動して、小さなアパートなので荷物は少し減らした。
離婚してもものは減らず
そして、離婚。
1度目の南麻布への引越しの時は、家族が戻ることを期待していたのだろう、電化製品も持っていた、冷蔵庫も、洗濯機も。
2度目に新橋に引っ越すときは、冷蔵庫は友人に譲ったけれど、ローテーブルに、ハイテーブル、そして洗濯機はまだ持っていた。
新橋で物を減らしたくて、ガスを止めて、手洗いを始めて、洗濯機もいらなくなった。
十番に移ってからも、まだモノが多い。
今も捨て続けているが、まだ物がある
毎日洗濯すれば、もっと減らせる
シャツも仕事をするためと朝活、そして女子と会うときのために複数持ったが、もういらないだろう。
おわりに
歯ブラシひとつに携帯は今なら含むのだろうな、現実問題として
そして、歯ブラシ一つで連絡もできて仕事も出来るはず。